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東京地方裁判所 昭和45年(刑わ)4547号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四三年六月二九日、東京都豊島区池袋本町一丁目一六番二三号自宅から普通貨物自動車を運転するにあたり、あらかじめ自車の制動装置各部を点検し、その異常のないことを確かめたのち運転を開始すべき業務上の注意義務があるのに、自車のフートブレーキのマスターシリンダー内のチェックバルブが破損し、ブレーキペダルの踏みこみが少なくなつていることに気づかず、かつサイドブレーキが調整不良のためききが悪くなつているのを知りながら運転を開始した過失により、同日午後四時一五分ころ、同都世田谷区代沢一丁目二七番六号先道路を環状七号線方面から渋谷方面に向かい時速約二〇キロメートルで進行中、前方の横断歩道上を左から右に歩行中の秋永春海(当時三五年)、秋永美穂(当時二年)、秋永美智子(当時二九年)および巨田実(当時一年)等を約二三メートル左斜め前方に認め、フートブレーキおよびサイドブレーキにより停止措置をとつたが停止できず、自車を同人等に衝突させ、よつて前記秋永美穂をして同日午後七時一五分ころ、同都同区代沢四丁目二六番一三号小林外科医院において頸椎骨折により、前記秋永春海をして同年七月一日午後一時二一分ころ、前記小林外科医院において頭蓋内損傷によりそれぞれ死亡するに至らしめたほか、前記秋永美智子に加療約八か月を要する頸椎捻挫の、前記巨田実に加療約一週間を要する左臀部打撲症等の各傷害を負わせたものである。」というのであるが、当裁判所が取り調べた各証拠によれば、次の事実が認められる。

被告人は、通算約一五年の運転経歴を有するものであるが、昭和四一年三月ごろ公訴事実記載の自動車(日産セドリックライトバン六二年式、以下本件自動車という)を前所有者から中古車として譲り受け、一年ごとの車体検査を二回繰り返し、最後の検査は、東京都江戸川区所在の株式会社アサヒに依頼して車体の点検整備を行なわせたうえ、昭和四二年七月一八日に有効期間を同四三年六月三〇日までと定めた自動車検査証の返付を受けた。その後道路運送車両法四八条に定める六月ごとの定期点検整備を怠つたが、一週間に二、三回は本件自動車を自己の営業に使用するため運転し、その間、サイドブレーキの調整不良には一、二か月前から気づいていたものの、フートブレーキについては異常を感じていなかつた。そして前記自動車検査証の有効期限の前日である昭和四三年六月二九日午前九時三〇分ごろ、本件自動車を運転して豊島区池袋の自宅を出発し、都下狛江町まで約二〇キロメートルを運転し、同所で午後三時三〇分ごろまで塗装の仕事を続け、それから代々木駅前に集金に行くため、助手席に職人一名を乗せて出発し、途中信号等で何回となく停車したが、フートブレーキには異常が認められないまま、同日午後四時一五分ごろ世田谷区代沢一丁目の車道の幅員約九メートルの道路を時速約四〇キロメートルで東進し、公訴事実記載の事故現場にさしかかつた。被告人は約五〇メートル手前で前方に横断歩道があり、歩行者が横断しようとしているのを発見したので、アクセルペダルから足を離し、ギヤをトップに入れたまま進行し、時速約二〇キロメートルに減速した状態で、右横断歩道手前に停止しようとしている普用乗用自動車に接近し、これに続いて停止するため右先行車の約一〇メートル手前でブレーキペダルを踏みこんだところ全く踏みこめず、ブレーキがきかないことが判明した。被告人はそのまま前車に追突すれば、これを横断歩道上の人の群に突入させると判断し、ハンドルを右に切つて前車の右側に出、そのまま道路右端の電柱に衝突させて停止しようとしたが、右側からの横断歩行者があつたためこれもできず、ハンドルを左に切つて横断歩道の向う側に対面して停止している車両に衝突させて停止しようとしたが、横断歩道上を通過する際、左から右に横断して来た公訴事実記載の被害者四名に次々と本件自動車前部を衝突させ、同人らに公訴事実記載のとおりの死傷の結果を発生させた。被告人は、フートブレーキの故障に気づいてから衝突するまでの間にサイドフートブレーキも引いているが、制動効果は全くなく、結局本件自動車は衝突地点から約一八メートル走行して停止した。

ところで、このようにそれまで異常なく作動していたフートブレーキが急に完全にきかなくなつた原因を考察すると、東京日産自動車販売株式会社サービス部技術課長作成の「高山善治殿所有のブレーキ事故検討書」によれば、本件自動車のフートブレーキのマスターシリンダーのチェックバルブラバーが破損して二つに割れ、移動してマスターシリンダーとブレーキパイプの接続部かブレーキパイプとパイプコネクターの接続部かのいずれかに詰り、このため油圧が各ホイールシリンダーに全く送られない状態となり、ブレーキベダルの踏みこみも不可能になつたものと認定できる。右ラバーはその後右前輪のブレーキホースおよびホイールシリンダー内に移行し、このため再び不完全ながらフートブレーキがきく状態になつたものであり、このことは事故直後現場に急行したパトロールカーの乗務員伊集院繁が検察官に対し、「被告人に車両を移動させるよう指示したところ、ブレーキがきかないというので運転席に乗りこみフートブレーキを踏んでみるとペダルが全然引つこまなかつた。その後交通係が来て調べているうちまたブレーキがきくようになつた」旨供述しているのとも符合する。

そこで被告人の過失の有無について検討すると、検察官の主張する訴因によれば、被告人は右のようなフートブレーキの故障を、当日朝の仕業検点によつて発見すべきであつたということになるが、本件のようなフートブレーキの故障は稀有の現象というべきであり、またマスターシリンダーを分解する等の方法によらなければチェックバルブラバーが老化して破損寸前の状態にあることを発見することは不可能であるから、通常の運転者に対し、仕業点検時に右のような故障を発見すべきことを要求することはできないものといわなければならない。また、その他フートブレーキの制動機能の異常を予見しうるような特段の事情のあつたことを認めるに足りる証拠はないから、右の点について、被告人が自動車運転者としての業務上の注意義務に違反したものとすることはできない。

次に、検察官は、被告人がサイドブレーキの調整不良に気づきながら本件自動車を運転したことを被告人の業務上の過失として主張しているので、この点について判断すると、前記「ブレーキ事故検討書」によれば、本件自動車のサイドブレーキは、そのレバーの引き代が調整の良好のものより長く、ストッパーに当るまで全部引かなければならないが、一杯に引けば制動能力があり、時速二〇キロメートルの場合、本件自動車は六メートルから6.2メートルで停止することが認められる。そして本件で、被告人がフートブレーキの異常を発見した地点から衝突地点まで約一九メートルの距離があつたから、サイドブレーキを早期に確実に操作することにより本件事故の発生を防止することは、理論上は不可能でなかつたことになる。しかしながら、この点を被告人の過失ということができるかどうかについては、右のようにサイドブレーキは調整不良で引き代が長かつたにせよ、確実に操作していれば制動能力は十分あつたのであるから、被告人が右調整不良を知りながら本件自動車の運転を開始したことをもつて本件事故の直接の原因とすることはできないのみならず、本件のようにそれまで異常なく作動していたフートブレーキが突如としてきかなくなり、一方サイドブレーキの制動効果だけでは前車との追突がさけられないという状況におかれた運転者に対し、ハンドルの操作によつて危険を回避しようと努力するかたわら、サイドブレーキを早期にかつ確実に操作して事故の発生を防止すべきであつたと要求することはいささか酷にすぎるものというべきである。まして、本件では異常を発見してから衝突までの時間は計算上三秒半にみたないわけであり、この僅かの間に、冷静着実にサイドブレーキを操作して衝突地点に達する前に本件自動車を停止させるべきであつたということを通常の運転者に期待することはできないものといわなければならない。そうすると本件ではサイドブレーキの点についても、被告人に業務上の注意義務に違反したものとすることはできない。

以上のように、本件では被告人が業務上の注意義務に違反したという点についてその証明がないことになるから、結局犯罪の証明がないものとして、刑訴法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすべきものである。(海老原震一 佐野昭一 白井皓喜)

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